『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』〈守られなかった子どもたちについて〉
※映画の内容に触れます。未見の場合、鑑賞時の楽しみを損なう可能性があります。
【ワーナー公式】映画(劇場作品)|ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結
悪党!ゴア!アクション!トドメにKAIJYU!
画面をみるだけでパワフルな映画です。
そしてこのドンチャン騒ぎの物語は、これまた力強いメッセージを発していたように思えます。
一つには「彼・彼女らはヴィランである」ということ。
そして「子どもは守られるべき」だということです。
「彼・彼女らはヴィランである」
このままではただの事実です(そういうコンセプトのチームなので)。
しかし『ザ・スーサイド・スクワッド』ではこの言葉の後ろにいくつかの景色を折り込めるかもしれません。
・「だから使い捨てられる」
冒頭では囚人達(+大佐)で編成された“スーサイド・スクワッド”が使い潰されるさまが描かれます。
無理な作戦を強要され、助けは来ず、しかもそれが「ザ・スーサイド・スクワッド」の上陸の為の陽動でしかなかったと。サポートするはずの職員たちはメンバーの生死で賭け事をする始末。
大佐、キャプテン・ブーメラン、ハーレイ・クィンの前作キャラクター達が、オープニングで脱落するのも示唆的です。
・「だから問題を抱えている」
ザ・スーサイド・スクワッドのメンバーは各々が(その大小はあれど)問題を抱えています。
「ヒーローの抱える問題」も定番ですが(メンバーと作品の世界観が近そうなバットマンとか......)、社会から弾き出された/飛び出た存在であるヴィランのそれは、もはや前提のように存在するものかもしれません。
これらの問題はトラウマやその行動、性格の難を含むでしょう。
彼・彼女らはそれらに少なからず影響を受けて罪を犯し、スクワッドに参加する/させられるとも言えます。
例えばブラッドスポートは父親からの虐待的な訓練によりスーパーマンを苦しめる程のヴィランとなりますが、自分を非人間的と信じ娘を拒絶します。それは周りまわって彼女の非行を起こし、彼の弱みとなるわけです。
キングシャークは言動・嗜好により孤立を極め、ピースメイカーは極端な性格・信条により仲間をも殺めます。
母親に(おそらく非合法な)実験体とされたボルカドットマンは身体的・精神的疾患に苦しめられ、それ故に他人を害することができます(つまり彼には他人が憎悪の対象=母親に見えているので、自ら生み出した水玉で傷つけることができる)。
並べてみると彼・彼女らの問題には「親」が共通して関わっていることがわかります。ブラッドスポートとピースメイカーは父親から、ボルカドットマンは母親から虐待を受け、力を与えられています。キングシャークの風貌(および嗜好)と力は祖先に依るものですし、ハーレイは生みの親であり、恋人でもあったジョーカーと訣別しています。
ラットキャッチャー2と父親の関係は良好でしたが、彼が保護者としての責任を果たしていたとは言い難いでしょう。彼女は生活のために銀行強盗することへ何の疑問も抱いていません。
彼・彼女らはある意味で「守られなかった子どもたち」でもあったのです。
・「だから暴力に訴える」
ヒーロー映画(映画に限らずですが)は暴力による解決が多い......かもしれません。
ヒーローには在り方と手段(暴力)の乖離に悩むキャラクターも少なくありませんが、ヴィランのその手段へのハードルの低さは言うまでもないでしょう。
この映画においてもスクワッドは(皆殺しにしろと言われていたとはいえ)反乱勢力をバラエティーに富んだ殺害方法で、嬉々として壊滅させます。
暴力という選択肢への到達の速さ、引金の軽さは、スクワッドの周囲をエンパワメントする、というとあまりに無責任かもしれませんが「暴力という手段」を与えているように思えます。
そのもたらすものが反乱勢力によるクーデターであり、スタッフのウィラーへの反抗です(反乱勢力はすでにゲリラとして活動していましたし、スタッフの反抗はスクワッドの離反とウィラーの発言が直接のきっかけですが)。
理不尽への抵抗であるこれらの行動は「よいこと」としてエンディングを迎えますが、手段はどうでしょうか。
スクワッドやコルト・マルテーゼ軍による暴力とそれらは何ら変わりがありません。
共通するゴア描写によって、どちらの暴力も露悪的に描かれているのです。
閑話休題。
この作品には、生い立ちからキャラクター設定までだだかぶりのブラッドスポートとピースメイカーをはじめ、共通点を持つキャラクターが多数登場します。
好き放題していたハーレイが生き長らえていたのは、コルト・マルテーゼの人々が反米の同志として彼女を捉えていたからであり、キングシャークが「メンダコに似た何か」を友達認定するのは、意思を持つ水生生物という一致ゆえでしょう。これらの親近感は一方的なもので、「裏切られる」ものでもあります。同じ方向を向いていたとしてもモチベーションが同じとは限らないし、似たアイデンティティであっても親しくなれるとは限らないのです。共通点を持っているからこそ生まれたディスコミュニケーションではないでしょうか。
スターロ大王とボルカドットマン、キングシャーク、そしてラットキャッチャー2にも不思議な相似があります。
スターロ大王は大勢の人間に寄生しますが、それらは分裂したスターロなのでどこまで増えても1人です。それに対しボルカドットマンは他者が母親、キングシャークは他者がゴチソウという個でみえている、というように全体と個の判別がつきません。
スターロ大王が人間を全て自分とすることでコルト・マルテーゼを支配しようとするのに対し、ラットキャッチャー2がネズミ灯でマルテーゼのネズミを総動員し打ち倒します。「最下層」の生物が集結することの意味するところは明確ですが、ネズミ灯で動員されたネズミに意思はあるのでしょうか?
これらの懸念はボルカドットマンがミルトンを唯一認識し、キングシャークがラットキャッチャー2と友達になること、そしてネズミのセバスチャンによって(多少)解消されます。彼・彼女らは大勢の区別はつかない(つけなく)とも、他者の存在を認識し、大切にしているからです。
「子どもは守られるべき」
この主張は作中で(形を変えて)繰り返し登場します。
ブラッドスポートは娘を人質に取ったウィラーに対し「娘はまだ14歳だ」と詰め寄り(実際には16歳で州によっては大人として扱われると返されていますが、ウィラー以外のスタッフはあくまで子どもとして捉えています)、ハーレイは”地雷“として「子どもを殺すこと」と明言します(ハーレイはロビンを殺害した嫌疑がかかっていますが前後の発言からすると「今度は断る(大意)」ということでしょうか)。
同盟国ではないから見捨てると発言したウィラーは「子どもを見殺しにはできない」という理由で部下に殴り倒されます。
そしてラットキャッチャー2を(拒絶したはずの)娘になぞらえたブラッドスポートは彼女を殺そうとするピースメイカーを事情がわからなくとも即座に撃つのです。
ゴアゴアな暴力描写の中で、唐突にも思えるこれらの表明は「正しさ」への目くばせとしてのポーズや、あるいはそれを揶揄したジョークでしょうか。ジェームズ・ガンがこの映画に携わった経緯からしても、そう思いたくはありません。
そのおそるおそるとした“こなれてない”主張は、陳腐でも浮いていても「そうあるべき」として正しさに向かうという、作り手達による表明だと思いたいのです。
おっかなびっくりセバスチャンを撫でるブラッドスポートのように。
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